風景づくり夏の学校座談会2014(兼基礎プロ1メモ)
この座談会はU30都市計画-設計提案競技に先駆けて2014年7月9日に、早稲田大学で行いました。←その2
後藤春彦(都市計画家)×羽藤英二(都市工学者)
都市計画から地域デザインへ(その1)
「今の城崎の姿は震災復興の姿なんですね(後藤)」
羽藤:今日も本郷から早稲田まで歩いてきました(笑。よろしくお願いします。最初に、後藤さんが取り組んできた城崎温泉の話をお聞きしたいんですが。どちらかというと都市計画的なアプローチが後藤さんの真骨頂だと思いますから、青木さんの建築から考える都市デザインとの違いが見えてくると面白いと思っています。そういえば、僕の研究室のゼミ合宿で城崎の三十三間広場を見に行ったんですよ。
後藤:測ったら本当に三十三間だって(笑)?
羽藤:四所神社の前の通りを学生と一緒に測ったらホントに三十三間ありましたよ(笑)
後藤:城崎の都市デザイン手法そのものは、『図説都市デザインの進め方』(丸善出版)にまとめています。4年生の設計演習を進めるための教科書を、早稲田の4人の教員でつくろうということで、他人のやった事例じゃなくて、自分自身が関わったプロジェクトしか載せないっていうことでまとめたのがこの本です。構想、造形、編集というパートに分かれていて、僕が書いてるのも城崎のプロジェクトが中心です。まず、もともとどうしてこの仕事に恵まれたかっていう話をさせていただくと、城崎も震災にあっているんですよね。
▲後藤ら,図説都市デザインの進め方,丸善,2006.
羽藤:北但馬地震ですよね。相当な被害だったとか。
後藤:当時、早稲田の建築学科が城崎の復興まちづくりをお手伝いしました。そのとき岡田信一郎が早稲田にいたんですが、彼はキーパーソンで、今和次郎を美大から読んできたのも岡田信一郎なんですが、その岡田信一郎ともうひとり材料の吉田享二。二人とも東大から来た先生ですがその二人を当時の高田早苗って総長が城崎に送ったんですね1)。それは早稲田出身の城崎の町長さんからの依頼だったわけですが、関東大震災の2年後の震災だったから、まだ帝都復興で、、、
羽藤:技術者もばたばたしていたと。
後藤:はい。それで、国から技術者が派遣できなかったということもあると思います。いずれにしても、今の城崎の姿は志賀直哉が逗留したころの風景ではなく、震災復興後の景観設計によるものなんですね。鉄筋コンクリート造による6棟の外湯と城崎小学校の再建を中心とする明確な復興ビジョンが示されて、避難路の確保や延焼防止を目的とした土地の1割無償提供による区画整理、まちの骨格を形成する大谿川の改修、公共機関・角地建物の鉄筋コンクリート化などが手掛けられました。さらに復興事業は官主導になりがちですが、防火地域の決定において町民大会などの住民合意形成の機会が設けられたことや、生活再建のための低金利融資制度を導入されたことなどは画期的だったと思います。そうした災害を克服したことによって、木造三階の旅館が隙間なく連なる今のような特異な町並みができあがったわけです。
羽藤:災害に直面して、専門家の岡田と吉田による当時最先端の技術的な検討を取り入れて、自らまちづくりのルールをつくってやってきたということですよね。何の裏付けもなくこの道を広場にしちゃうみたいな提案は現代でも散見されるわけですが、実際の現場では相応の制度が適用可能かとか、市民と合意を確認していくプロセスがあるはずです。城崎は復興からのまちづくりということもあり、空間をつくり出す仕組みが優れているという印象があります。
後藤:アーバンデザインは、時間をかけてやるしかないと思っています。さっきの話でいえば、北但馬地震の時の町長さんのお孫さんが旅館のおやじだったんだけれども、市町村合併の問題が起きた際に、町長に担ぎ上げられて、合併後も城崎が城崎温泉でありつづけるための計画をつくらなきゃいけないということになった。それで僕を呼んでくれたんですよね。合併前の2年間をかけて、『きのさきこのさき100年計画』と名付けた合併後の住民自治のための計画をつくったということです。それまでは、町役場を単位とした団体自治だったものが、大きな豊岡市に合併で飲み込まれちゃった時に、今までやってきた自治をどうしたら住民自治に転換できるかがテーマでした。みんながやってみたいっていうプロジェクトを、ワークショップを何回も繰り返しながらつくっていった。いつ、誰が、どの予算でやるか、計画の実行性は何も書いてないんだけれども、いつか、誰かと一緒に、やってみたいことが記されている。未だに商工会とか、旅館組合とか、色んな団体がこの計画を眺めてはひとつずつ自分たちでこなしているって感じでまちづくりのバイブルになっている。時間をかけて地元に入っていって、土を耕すことから始めて丁寧に種をまく。まあ、常にヒットを打たなければいけないって感じでもないんで。3割バッターは強打者だと思っているんで(笑)。
羽藤:でも7割は失敗するわけですよね。
後藤:だからそれはやっぱり、協働作業だと思うんですよ、地元と僕らの。どっちかがこければヒットは打てないと思うから。
羽藤:合併がひとつのきっかけになって、自治をあらためて考えたときに、自治体という枠を外した時、地元の人々と専門家で一体何ができるかをひとつづつつくりあげていったということですか。
後藤:そうですね。で、たまたま湯島というあの谷からしか温泉が沸きでなくて、ひとつ隣の谷は全く出ない。おまけに湯量もすごく少ない。だから「内湯紛争」何て言う苦い歴史もあって、その結果、外湯めぐりが発展した。でも実はどの外湯も同じお湯なんです。
羽藤:そういうことですか(笑)
後藤:だから、外湯の建物の形をひとつづつ変えて楽しんでもらうってことにしてるわけです。湯量が少ないこともあって、お湯の分捕り合戦っていうのが昔あった。調停工作は難航し、昭和恐慌の時代に27年間もつづいた。震災以外にも暗い過去を乗りこえてきたわけです。現在は、集中管理配湯方式が導入され、お湯に関しての管理の一元化がされています。そこに温泉を所有し、外湯の管理を行っている「湯島財産区」の存在があります。ですから、ある意味、市町村合併して城崎町がなくなっちゃっても、湯島っていうあの谷だけなんだけども、そこは公職選挙法で選ばれた議員による意思決定の仕組みももっている。だからそれを活かしましょうというので、どこの町でもできる住民自治でもないんです。住民自治と団体自治の中間みたいなところなんですけれども、そういったところに着目して焚き付けていったって感じですかね。
「利己的な集団ですよね、日銭を稼ぐ商売だから、だからまとまらざるを得ない(後藤)」
「温泉街のあり方は湯量のバランスや外部空間のしつらえ次第で変わっていく(羽藤)」
羽藤:道後温泉の場合、昭和28年の国体に備えて椿の湯という外湯を一旦 設けながら、思うように客が入らなかった。そこで源泉開発を行い各宿泊 施設は内湯を整備し、財産区も昭和41年に廃止してるという経緯がありま す。なものですから、源泉に対する意識は高いんだけど、現実には市の財 源を使っていかざるを得ないというジレンマもある。当事者意識は同じで も、道後と城崎の方法論に違いはあるかもしれません。住民が自ら取り組 む上で、普通の町でも関心が希薄になっている中、城崎は自治の気運が高 いことがうまく機能しているように思います。そのあたりはどう感じてお られますか。
後藤:城崎はとにかく温泉にまつわる観光でみんな食っているところなので、本来は利己的な集団ですよね。日銭を稼ぐ商売だから。だから、まとまらざるをえないところもあったと思います。
羽藤:近江八幡とか、博多もそうです。彼ら商人たちが自分たちの利益を確保するために運河やコモンをつくっている。そういう合理的な共有体験を地域で積み重ねてきたところは、空間のルールづくりもうまい。何よりへんな空間計画をすると、不利益が自分たちの身にふりかかってくるという当事者意識がとても高い気がします。
車でアクセスしやすい町にどんどん温泉街が転換していく中で、城崎は外湯を生かして、外湯のための空間をつくっていくというやり方を選んだ。商売を考えて競っている人たちがよく一緒に反応できたなと思います。普通は、自分の宿の内湯を充実する方向に行きそうなんだけど、そこがちょっと他と違うと思いますが、なぜなんでしょうか。
後藤:僕はやっぱり旦那衆の力っていうのがすごく重要で、『旦那マインド』ってよく言うんですが、戦前は旦那衆が町を経営してきたと思うんですね、温泉街であっても、田舎の商業地であっても。それをやっぱり復活させていかなきゃいけないなって色んな時に思っています。旦那衆って、商売と趣味と地域貢献が一緒になっているような感覚をもっている。そこが重要だという認識は前から持っていて、ひとつのツボだと思います。それと、城崎がやっぱりまとまっているのは湯量が乏しいっていうことですよね。共有すべき資源に限りがあるということ。したがって、配湯される内湯の量は厳格に決められていて、各旅館には家庭のお風呂を少し大きくしたくらいのお風呂しかなくて、だから皆で外湯に出ましょう、外湯を巡りましょうってことになった。それがあって外部資本が入ってこれなかったんですね。家族経営の小さな旅館ばかりだから、大型バスが乗り付けて、団体旅行客を受け入れて、館内に土産物屋も居酒屋もつくって、建物からお客を外へ出さないという商売の形態にはならなかった。
羽藤:道後温泉も前回の南海地震の時に湯が止まっている。温泉地の長い歴史の中では災害も繰り返されてる。南海地震のときは湯がしばらく出なくて大騒ぎになった。常に湯量が足りないっていう話は出るんですよね。じゃあそれを豪華な内湯を切り替えて外湯にするという判断ができるかというとそこは難しい。今はまだそれぞれのホテルでやれている状況だから。でも観光客の数も長期的に減少している中、本館の耐震補強も間もなく入りますから、今後は業態を変えていくきっかけになるかもしれません。プログラムにしても温泉宿以外の内容もあり得るかもしれない。ただそれがバラバラでは困る。バラバラだけど、共同合理的性がその中にないとまちは維持できない。温泉街のあり方は、湯量のバランスや外部空間のしつらえ次第で変わっていく。宿泊、料理、風呂、土産、飲食、射的などの娯楽、エステや落語、湯治、どういう方法で儲けていくかを選択することでまちは大きく変わっていきます。地形も、街路も、全部うまく使ってどうやって町で現実的に生業をマネジメントしていくか。
後藤:草津なんかもそうだけど、老舗の旅館の旦那衆らは子どもたちを中学ぐらいから東京とか大阪に出しちゃって、ちゃんとした教育を受けさせて戻すっていうことをみんなやってますね。ああいうのも、なんていうか、『旦那マインド』っていう地域経営感覚のひとつなんだと思いますけど。
羽藤:林業なんかもそういうところがあります。
後藤:そうだね、昔のね。
羽藤:自分たちの土地で生きてくことに対して驚くほど真剣なんですよね。商いをどういう知識のもとでやっていくか、学者なんかよりもよほど客観的な事実を重視して研究しています。紀伊半島の林業家の人たちと付き合いがあるんですが、彼らは子供たちを東京や海外に出して、新しい林業の方法や知識を全力で収集しています。自分の生まれた土地に対するプライドや愛着、商いを継いでいかないといけないという強い意思をもっています。彼らが実家に戻って、新しいやり方を試して展開して地域を再生している。客観的な知識に裏付けされた現実的な空間管理を、ストックホルダーである彼ら自身の手で行っています。
後藤:そうですね。
▲城崎温泉三十三間広場(写真:後藤春彦研究室)
「通りにゆとりを与え直してる(羽藤)」
「城崎の谷っていうのは人間の耳の穴みたいな形している(後藤)」
羽藤:城崎に話を戻しますが、三十三間広場とか火伏せ壁は、どこからアイデアがでてきたんでしょうか。
後藤:三十三間広場は測って延長が60mってわかったときに三十三間だなってすぐに浮かびましたけどね。
羽藤:青木さんとの話でもあったんだけど、日本に広場ってほとんどないじゃないですか。三十三間広場も広場って名前がついてるんだけど実は通りなんですよね。温泉から出た人がちょっと灯りにひかれて歩いて、ゆっくりするという感じです。通りにゆとりを与え直してる例かなと思ったんですけど、そういう見立てはどいうところから出てきたんでしょうか。
後藤:四所神社っていう城崎の谷で一番重要な神社があるんですが、その正面に従前は鉄骨3階の温泉旅館が建っていたんですね。で、それがちょっと経営的に傾いて売りに出て、放っとくと外部資本が入ってきちゃうからなんとかしなくては、っていうことになった。旦那衆が集まって、結局、市に買ってもらうことにしたんです。そういうことで、鳥居の前に空間ができたので、それを参道と見立てましょうというところから始まったんですね。
羽藤:温泉地の建築は東京に負けず劣らず入れ替わりが激しいので、売りに出るタイミングでそれをどう変えていくのかが重要になります。通常なら外資がはいってきて買われているケースも多いと思いますが、それをどういう使い方の施設に再編集していくのかが難しい。城崎ではワークショップでやっていったんででしょうか。
後藤:そうですね。今神社の横にある大きな外湯、御所湯っていう外湯も、実は元は役場だったんですね。
羽藤:役場だったんだ。
▲城崎温泉三十三間広場図面(1/1000)(図面:後藤春彦研究室)
後藤:本当の御所湯っていうのはもうちょっと離れたところに、西山夘三の設計であってなかなかいい建物だったんですよ。地蔵湯っていうのも西山卯三。一の湯は岡田信一郎だったんだけど、そのリニューアルが重村力。だから色んな人がやっている。
羽藤:慣れてるんですかね。
後藤:ここの旅館の親父達は、一生の内に建築なんて何度もつくる機会があって、すごくよく知ってますね、建築のこと。
羽藤:設計提案して図面できるとそれは完成形だと思いがちですが、それが常に変わり続けてるということですよね。そのサイクルが速いのが温泉街なんですね。
後藤:それはもうだって、旅館なんか、ふすまとか障子とか畳とか毎年、あるいは季節毎に変えてますからね。それでちょっとずつ調整して、時代のブームに合わせて和風にしたり洋風にしたりするので、そういうチューニングが大好きなんですよ。みんな普請趣味がある。
羽藤:なるほど。でも建築単位で内部をリノベーションするのはわかりますが、建築を畳んで新たなスペースにして人の動きを整えるというのは面白いですね。城崎のプロジェクトでは、広場の奥にさらに商業スペースと奥広場を設けて、動線を流し込んで、奥の広場には表通りと少し違うプログラムを挿入しています。閉じていた空間を開くことで、御所湯に入った後の活動の場所が生まれています。プランニングレベルの提案もそうですが、建築的な提案は地元合意しながらやっているんですか。
後藤:たとえば、RCの火伏壁は、仕上げのお金がなくて、最後、どうしようかっていうので、ペンキじゃないよねっていうことで、和紙にしてもらったんだけど。それは本当に大丈夫かって心配されまくって。カビの問題もあるし、『コンクリート打ち放し和紙仕上げ』なんて聞いたことないぞっていうことで。一冬、モックアップをつくって実験したんですよね。タバコの火を押し付けるやつが居るんじゃないかとか、マジックで落書きされたらどうするんだとか、いろいろ言われた。じゃあ何かあったら学生連れて張りかえにきますって、10年は保証しますとかって言ってやらせてもらいました(笑)。
羽藤:最後はそういうやり方で(笑)これは、どのくらいの期間かかっているんですか。
後藤:5年くらい。2年で計画ができて、そこから3年で。
羽藤:城崎では、制度がうまく使われているという印象なんですけど、建築そのものを防火壁に見立てているわけですが、誰が言い出したのでしょうか。
▲城崎温泉三十三間広場の風景(写真:後藤春彦研究室)
後藤:「火伏壁」と名付けた防火壁は、制度っていうよりも、大正15年の震災の復興の時も角地の建物を不燃化しようって復興計画で決めていたので、そこを受け継いであげようって思っただけです。
羽藤:個別には広場をつくっただけですが、結果として、観光客の動線に大きな変化が生まれています。城崎温泉全体を動きの中でどうとらえ直していたのかに関心があります。後藤さん自身はプランナーとして、部分から全体、全体から部分を、どう構想されたんでしょうか。
後藤:この大谿川っていう川沿いは、表の通りと対照的な道なんだけど、人通りが少なくなっていて、だからこの計画でなんとか回遊性を生み出すことができないかっていうのがありました。その背景には、三十三間広場の前段に「きのさきこのさき100年計画」をつくったとき、最初MITの学生と早稲田の学生で城崎に合宿したんですね。そこで町民に1週間後に設計案を提案するっていうシャレット・ワークショップをやった。その時のMITの学生のファースト・インプレッションがボディーブローのように効いてくる。1人はね、「泥棒道」って子どもたちが呼んでいる山際の道がすごく面白いんだと言い出した。だから泥棒道計画みたいな有機的なネットワーク案は当初から1つあったんです。もう1人の女性は、城崎の谷っていうのは人間の耳の穴みたいな形をしているって言うんですね。
羽藤:面白いこというね。(笑)→その2(続く)
補遺)
1)笠原敏郎は、内務省都市計画局の官僚で、早稲田で1922年に都市計画を最初に講義している(世界最古の「都市計画」の講義は1909年に米国ハーバード大学ランドスケープ・アーキテクチュア学科(1929年より都市計画学科)において開講)、当初は非常勤講師として「都市計画」を担当。1923年の関東大震災後、1924年に復興局へ異動したため、1925年には建築材料を専門とする吉田享二に「都市計画」の講義は引き継がれた。結果的に、内田祥三(東大「都市計画及建築法規」1923)、片岡安(京大「都市計画法」1922)、笠原敏郎(早大)という当時の官製都市計画の指導的立場にあった三人とは異なる「都市計画」が吉田によって講義されることなる。吉田にとって、城崎は都市の不燃化の大きな実験場だったかもしれない。結果的に、吉田は、太平洋戦争が終わるまで、早稲田で都市計画を教え続けた。そうした経緯もあり、材料の助手として採用された吉阪隆正の卒業論文の結論は、植民地における材料と都市計画への言及であった。
U30都市計画-都市設計提案競技2014
「移動風景の再生と展開」